あなたには向いていない

手話バッチ大学4年の夏、自分の将来の進路について

本格的に考えなければならない時期になり

正直なところ、私は非常に戸惑いを感じていた。

やってみたいことは、ある。

でも、それをどのようにライフワークとして結びつけるのか

いやいや、それよりもそのことが私のこだわりだとしたら

仕事になどなるまいに、と。

ひょんなことから始めた「手話」

大学のサークルに入るノリで、地元の手話サークルに入り

2年間の学習期間を経て、当時はまだ認定資格だったけれど

手話通訳奉仕員の資格を取得した。

元々、この手の学びはキライではないので

講習は1回1回が、物凄く面白かっ た。

しかし実際、通訳として現場に赴くと

一筋縄ではいかないことが多く

通訳…って、単に言語を置き換えるという作業ではなく

通訳者自身の人間性や能力が反映される業種であることを知った。

時には、依頼者の方のプライバシーに

深く踏み込むことをしなければならず

そうするためには、私はまだまだ若すぎた。

二十歳前後の脳は柔らかかったので

必要な情報は記憶することが出来たけれど

あまりにも赤裸々な現状を目の当たりにすることで

私自身が軽いショックを受け続けることになり

このままではまずい、と自覚した。

社会人経験が全くな いので

本当の意味で世の中を知らない。

確かに必要な知識や技術さえあれば

言葉を訳す、というシゴトは出来ても

それだけでは十分に伝わらず、解決しない問題があることに気づき

段々と通訳依頼を受けることが負担になってきて

どうしたらいいのだろう、と考え込むようになってしまった。

時代はまだ「昭和」の頃。

福祉の法制度や資格制度も確立していなかったので

その手の運営なども、各市町村に委託されていた時代。

今ならパソコンやネットを使えば

ある程度必要な情報は検索出来るけれど

通訳依頼が来た分野の専門用語を私自身が知らねば、仕事にならず

特に医療機関においては、ある程度の医学用語を知っておく必要があった。

でも、私にとっての本業はまずは、学業。

手話通訳者自体が、まだまだ人出不足だった時代ゆえ

「大学なんてさぼっちゃえ~。それよりも仕事して」なんて言われたけれど

実践講義を休んだら、本来の資格取得に影響が出るので、ご丁重にお断り。

そんな中にあって、ゼミの教授からも

「オマエ、この先、どーすんだ?」と再三、進路について聞かれたけれど

夏を迎えても回答は出せなかった。

手話通訳…

仕事をするにあたっては、そこには絶対に自分の思いや

余計な言葉を入れてはいけない、とうるさく 言われていた。

聞いたこと、読み取ったことだけを正確に訳しなさい、と。

たとえ、自分にある程度の知識があり

良かれと思って伝えたことでも

後に、そのことが原因でトラブルになる可能性もあるため

自分の思考・感情などは一切、仕事には入れないこと、と

これだけはやかましく言われ続けた。

しかし、ある日、医療機関での通訳依頼があり

そこで医師が語ったことをそのまま依頼者に伝えたことが

トラブルになった。

「あぁ、風邪ですね。きちんと治さないとね。

熱が下がって、ちゃんと食事が摂れるようになるまで

無理をせず、ゆっくり休んで下さい」

文字通り、そのまま訳した。

依頼者の方も「わかりました」と表現されたので

私の業務は、そこで終わり。

でも、会社員だったその方は、医師の言葉通りに

本当に「熱が下がって、ちゃんと食事が摂れるようになるまで」

仕事を休み、家でゆ~っくりと過ごしていたらしい。

後日、派遣事務所に呼ばれて

責任者からお小言を食らった。

「あなた、一体、どういう通訳をしたの?

依頼者の方が職場の上司と揉めているらしくて

大騒ぎになっているそうよ」と。

なるほど・・・と思った。

耳の不自由な方々との交わりを持つ中で

あれ?と感じることがた びたびあり

「耳が聞こえない」ということで

自ずと制限されてしまう情報と、理解の不足があることを知った。

私たちが生活の中で自然と覚え

身につけていく常識さえも、細かく教えてもらわないと、わからない。

でも、そのことに気づいている人も多くはない、ということも。

さりとて、私も学生の身分ゆえ、知らないことが多過ぎた。

正しい知識や教えが備わっていないものには

正しいことは伝えられない。

「無理をせず、ゆっくり休む」という言葉も

せいぜい、数日という認識が暗黙の了解の中に存在しているけれど

一週間、10日、と風邪で「ゆっくり」休まれては

流石に 職場は混乱する。

結局、私の通訳に問題があったのではなく

依頼者の方の正しい知識が欠如していたことが原因と判明し

全てが解決したけれど

本当は、そうした抜本的な問題から解決して行かないと

どんなにきちんとした通訳をしても助けにはならないのかも…と

そう痛感した瞬間だった。

私は、通っていた大学では福祉の学部に籍を置いていたけれど

聴覚障害を専攻していた学生は私一人だけだったので

外部から講師を招き、卒論の指導をしてもらっていた。

その方に、進路の悩みをぶつけてみたら

専門的な研究がしたいのなら

福祉系の大学院に進んでみ たらどうだろうか、と助言された。

ただし、受験の条件として、心理学とカウンセリングは必須なので

ある程度のベースは整えておくように、と言われたので

俄かに私は進学を決意することとなり

講義には一層、襟を正して臨むようになった。

ある日、カウンセリングの授業の中で

模擬面談をすることになり

くじを引いたら私がカウンセラーの役をする羽目に…。

受講生全員がギャラリーとなり、全編、ビデオカメラで撮影される。

相談内容は、その場になるまで極秘だ。

カウンセリングの技法と内容は、ここでは明かせないけれど

あくまでも、結論は当事者に出 させる。

そこに導くための役割がカウンセラーなのだから、と指導されてきた。

一通り、模擬面談が終了し、講師から下された評価は

「あなた、この世界には向いていないわね」というものだった。

「あなたね、人間というものは機械ではないんです。

心というものがあり、感情があります。

知識や技術、体験だけでは、カバーできないものがあるんですよ。

あなたがカウンセラーになったら、相談者がかわいそう」と言われ

・・・その意味が解らず、何だか悲しかった。

人生で、初めて味わう挫折でもあった。

人の心身に直接触れる仕事ではなく

総務や庶務、 秘書の仕事があなたには適格でしょう

とまで言われ、果たして、本当に私の進路はそうなった。

同時期に父が病で伏せてしまったので、進学は諦めざるを得ず

ならば、と自分の意地とプライドをかけて、上場企業に就職した。

使えそうな資格も、いろいろ取った。

三十路を区切りとして、キャリアアップのために転職もした。

その頃にはもう、手話通訳を通して純粋に抱いていた

切実なる問題点や課題なども、もはや自分とは関係ないものとなっていた。

世間からすれば、当時の私は勝ち組だっただろう。

仕事も収入も社会的地位も財産も趣味も結婚も

全てが満たされていたのだからね。

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でも、いつもむなしさが残り

そのたびに「あなたには、向いていない」と言われた

人の心を扱う分野のことが思いの中に湧いてきた。

転職した会社の倒産により、無職となって味わった

人生2度目の大きな挫折・・・。

加えてのしかかる親の介護と経済の問題

そして夫婦間の不和が私の神経をいらだたせ

そうした心の深みまで理解し、相談にのってくれる人が居たらなぁ

と思った。

カウンセリングを生業としている友人が

「大丈夫かい~?」って声をかけてくれたけど

人の助言や好意で、すぐに立ち直れるくらいなら、苦労はしない。

なまじ、中途半端に 私も技法を学んでしまっただけに

彼女が助言しそうなことを先に口にしたら
「あなたみたいな人が、一番厄介なのよね~」と言われてしまい

またか…と思いつつも、時を待つかな、と思った。

人は人の心を、本当の意味では扱えない、と思った。

そして特に、傷ついたこころを扱うのは、難しいと悟った。

その日から、かなりの年数が過ぎて

キリスト教会との関わりを持つことになった。

ほどなく、御霊の導きにより

私もイエス様を救い主として信じ・受け入れ

新生体験をすることとなったけれど

こともあろうに、こんな条件を口にする先輩信徒さんたちが居た。

「あなたね、救われただけではダメ。

信仰を持っ たら、ある程度、人間側の努力も必要なのよ。

古い自分を捨てたのだから、罪は全て言い表わし、悔い改めて

常に清さを念頭に置きなさい。

そして、人の模範となるような

立派なクリスチャンにならねばなりません。

神様が望まれる信仰者にならなければ、天国には入れないのですから」と。

は?

不可思議な掟、いや、信じたがゆえの新たな縛り…。

そんなもの、あるわけがないと思った。

救いの条件は、イエス様を信じるか否かだけ。

それに伴う条件なんてない。

そんなことを言い始めたら

それはもう、福音ではなくなってしまう。

信仰に、人が考え出した方法を持ち込んだら

それは学問か、あるいはカウンセリングの領域となろう。

私たちが本当に学ぶ必要があることは

御霊を通して御言葉から解き明かされる

本物の真理なのではなかろうか。

For unto us a child is born, unto us a son is given:
and the government shall be upon his shoulder:
and his name shall be called Wonderful, Counsellor,
The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace.

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。

ひとりの男の子が、私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は

「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

                       (イザヤ9:6)

人は人を変えることは出来ない。

そして、これはある意味、名言!だと思ったのだけど

元の教会の友人が口にした

「困っていない人は教会には来ない」ということ

言い得て妙だと思う。

人生の中で困難に遭遇した時

良かれと思って励ましの言葉をかけても

時として、かえってそれが更に落ち込ませる要因にもなる。

むしろ、一時的な気休めなど、要らない。

ましてや、困難の最中にある時は

難しいことなど 考えられない。

そこに教会で学んだ教科テキストの内容を

ごちゃごちゃと並べられても、はっきり言って、うざいだけだ。

「あなた、信仰者でしょう。そんなんじゃ駄目よ。

どんな時でも祈らなければ。神様が悲しまれるわ」

なんて責めるのは、お門違いというもの。

「大丈夫。たとえあなたが祈れなくても

私たちがちゃんと執り成しているから、自力で頑張らないことよ」

そう言ってくれる人こそ、本物の信仰者なのではないか。

本当に人を癒し、たましいを取扱い

生き方を変えられるのは、イエス様のみ。

主を信じ、心を向ければ

あとは御霊がはたらき、導きをお 与えくださる。

ここから先のことは、それぞれの信仰生活に反映されることなので

あとは私の生き様を通して、証ししていくしかないけれど

何しろ、イエス様は「ワンダフルカウンセラー」

不思議な助言者なのだから、最善の結果に導いて下さるに違いない。

「あなたには向いていない」

かつて、そう断言してくれたあの講師の言葉も

ある意味、誤りではないな、と思った。

以上は、http://tkgb.seesaa.net/article/401181142.htmlからの引用です。

色々と考えさせられる内容です。

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