借別 手話通訳の草分け 貞広邦彦(さだひろくにひこ)さん
秋篠宮妃紀子さまの手話は、まるで茶の湯の点前を見るように優雅だが、その指南役を13年務めたのが、貞広さんだった。
通夜にみえた紀子さまは棺に向かうと手話で、
「先生のご遺志にそうよう、これからも一生懸命努力いたします。どうぞ安らかにお眠りください」
と、静かにお別れをした。
そのとき、加津子夫人や遺族には、紀子さまの背中が小さく震えているように見えた。
貞広さんは手話通訳の草分けだが、手話を知ったのは20代の後半だった。広島の中学の数学の教師をしていたころ、知人に誘われて聾学校にいったのがきっかけだった。そこで見た子供たちと先生の必死な姿に胸を打たれ、聾学校の教師に転じる。そして、手話の単語をひとつずつ覚えていった。
「僕は、子供たちに教えられ、励まされ、育ててもらったようなものです。みんな、耳が聞こえない分、心が優しいんです。」
と、いつもいっていた。
増える一方のカタカナ言葉をどう訳すか。難問を抱えて忙しい日々を過ごしながら、手話落語をし、カラオケにいけば「王将」を手話付きで歌うこともあった。仲人をした聾唖者は30組を超え、その世界では、父親のように慕われていた。
2月に病気がわかって入院すると、加津子夫人に、「やっと二人きりになれたな」といったが、病気と闘いながらも、恒例の「全国高校生の手話によるスピーチコンテスト」のことが、頭から離れないようだった。
手話の普及などを目的に、1984年に始まった催しで、第1回から審査委員長を務め、紀子さまは9回出席されている。
記念の20回目の今年は、8月30日に東京・有楽町の朝日ホールで開かれるが、息を引きとった6月2日は、そのコンテストの原稿応募の締め切りの日だった。(川村二郎)
以上は、私の手元にある2003年6月30日(月)の朝日新聞夕刊からの記事紹介です。