手話で教える洋裁・先生も苦難の闘病経験者・アラシの中のオアシス神戸

手話で教える洋裁・先生も苦難の闘病経験者・アラシの中のオアシス神戸

国鉄兵庫駅から西へ、高架下はずっと倉庫になっている。その一角に、夜の十時になっても明々と電灯がついているところがある。ここは神戸ロウア・ハウス。板敷の部屋にムシロを敷き裁縫机を囲んで一心に洋裁のノートをとっている二十数人の女性は”言葉を奪われた人たち”…教える人はイブの会の米原英子さん(三七)と万代房子さん(二九)の二人。高架上を走る電車の振動音と米原さんが黒板に書くチョークの音だけが森閑としたこの部屋の空気を破っていた。

ロウア・ハウスができたのはさる昭和二十四年の七月、神戸ろうあ協会(鎌谷悼会長 会員二百名)の広畑肇前会長や理事の竹中喜美さんらがなんとかロウア者のためのクラブを持ちたいと運動し、この建物を借りた。神戸市からわずかの補助はあるが鉄道管理局から借りている家賃年三万五千円を払えば集めた会費も全部なくなってしまうという。だが、会員にとってここは唯一のサロンであり、憩いの場所となった。これらの人々は不幸な星の下に生れ社会からはもとより実家にあってもうとまれる人がほとんど。雇ってくれる人もなく、洋裁や手芸で細々と生活の糧を得ているが、もとより自己流の貧しいもの。「なんとか洋裁の理論についても勉強できないものだろうか」と思い悩んでいた竹中さんの前に現れたのが米原さんと万代さんの二人だった。この二人がロウア・ハウスに毎週水・金曜の二日午後七時から十時まで出張講義に通いはじめたのが昭和三十年の七月。すでに八カ月もの間、一日も欠席することなくつづけられている。

はじめのうちはこの二人の先生も全然話すことができず、竹中さんが通訳をしていた。いまでは二人ともすっかり手話を覚え、集った生徒たちと手で冗談さえいえるようになった。ところが、この先生二人も実は身体障害者。黒板に立つ米原さん、おかっぱ頭の万代さん、ともに元気な顔色だが、米原さんは六年、万代さんは五年もの間、有馬郡三輪町、国立療養所春霞園での闘病生活を経てきた人。米原さんは合成樹脂の玉二十九個を胸に入れる大手術をしたが失敗して一年後にはロッ骨を七本も折り、万代さんもロッ骨を三本切り取った体だった。春霞園を退院後、二人はお互いに励ましあいながら、未亡人や身体障害者など社会的に弱い女性の人生に美しい花を咲かせるひとはできないかと相談した。この企てには万代さんの知人の神戸女学院社会学科を出たばかりの東後宣子さん(二六)と山口さなえさん(二六)も賛成、この四人でさる昭和二十九年の四月に女性ばかりの”イヴの会”がつくられた。手内職の技術を持たない人には技術を教え、職のない人には仕事を提供しようという会。会長にはお百度を踏んで兵庫県連合婦人共励会の田村ふくさんを迎えた。はじめは事務所を坪田ビル二階においたが、昭和三十年四月、現在の兵庫区会下山町一、積徳会内に移り、ひきつづき洋裁、和裁、人形、編物などの内職仕事を教え、あっせんしている。

ロウア・ハウスの編物教室にはすぐ三十人の生徒が集った。無論生活困窮者からは月謝もとらない。ほとんど足代にもならぬくらいの報酬でつづけられた。言葉が通じにくい点もあって、普通人なら三カ月ですむ課程も二年間はかかるという。しかしいまではどしどし質問も出るようになり、数人の優秀なものは別あつらえの注文もとれるようになった。この女性たちは「電車のなかで手話をしていると乗客がひどく笑うのが悲しい。笑わずに友達になってほしい。アメリカ兵は決して笑わない。可哀そうだといってチウイングガムさえくれた」「オシでも心のいい人、仕事も上手な人もいる。私は一生懸命勉強して覚えるから仕事場とミシンがほしい」「最近外国映画の”混血児”というのを見たが黒ん坊の子供がみなから笑われているのを見た時自分の子供時代を思い出して泣けて仕方がなかった。その子が海岸の砂でゴシゴシと顔を洗うのを見て私は指をいやというほど耳に突っ込んだ」また最近離婚した一婦人は「子供が生れるときオシではないかが一番心配だった。そうでないと知ったときの喜び。しかし大きくなるにつれ二人の子供がオシの子だと友だちにいわれ泣いて帰ってくる。結局自分がいない方がこの子のためだ。耳の聞こえるお母さんが来るようにと思って離婚した」とそれぞれ訴えるのだ。だかせ、この人たちは万代さんが病気になったとき、みんなで十円ずつ出し合って見舞に行く人達でもある。

以上は、私の手元にある神戸新聞の昭和31年3月4日(日)の夕刊記事からの引用である。

スポンサードリンク