聴覚障害者の教育の歴史(日本編)

聴覚障害者の教育の歴史(日本編)

聴覚障害者に対する社会の態度は、歴史的には三つの時期に区分される。

第一 古代から中世にかけて、障害者が迫害され、虐待されていた時代。
第二 キリスト教の普及期で、障害者が保護され、憐みの対象とされていた時代。
第三 ルネッサンス以降、障害者を受け入れて出来るだけ社会に統合させていこうとする時代

聴覚障害児を社会に統合させようとする教育は、ルネッサンスとそれに続く人文主義思想によってその可能性が叫ばれ、16、17世紀に、スペイン、オランダ、イギリス等の先進諸国で家庭内の教育が試みられた結果、18世紀の後半に、フランス、ドイツ、イギリス等にろう学校が設立されて本格的化し、急速に普及してきた。

日本における聴覚障害者教育の歩み

学校教育の開始
聴覚障害児の学校教育の必要性が叫ばれたのは、福沢諭吉や山尾庸三等のヨーロッパ留学の体験によるもの。つまり、欧米で聴覚障害児教育が開始されてほぼ100年の後のこと。

1878年  京都盲唖院
  古河太四郎や鳥居嘉三郎を中心に進められ、五十音の発音要領、漢字仮名の指導、筆談要領、作文指導及び算術や地理等の教科指導でした。指導方法は手話、指文字と書き言葉によるもの。

1880年  東京の楽前会訓盲院
  伊沢修二、小西信八、石川倉次等を中心に行われる。
  伊沢は欧米式の口話教育を紹介、小西は教員養成の道を拓き、石川は国語指導や発音指導に功績が大きいと言われています。

1900年前後に日本各地に篤志家(とくしか)による私立学校が20校ほど設立され大いに普及しました。

1920年以降、私立学校が府・県立に移行され、また、盲とろうが分離されて、本格的なろう学校教育へと脱皮していく。

口話教育への転回
手話法で始まった学校教育は、1920年にライシャワーによって日本語聾話学校が設立され、アメリカの口話教育が導入されて以来、次第に口話法へと転回していく。

1919年に口話研究所を開校した西川吉之助

1920年に口話法を採択した名古屋市立校の橋村徳一

1925年に口話法を採択した東京聾唖学校の樋口長市、川本宇之介
    特に、川本は日本聾口話普及会を結成し、機関誌「口話式聾教育」の発行、教員講習会の開催、教科書の編纂(へんさん)等を通じて口話教育の普及に努力した。

1930年にはほとんどの学校が口話法を採択するようになる。

しかし、大阪市立校の高橋潔、藤井東洋男、大曽根源助は、適正教育を主張し、聴力の程度や口話法に対する適正によって、口話、口話・手話・指文字、手話・指文字のグループに分けて指導した。

戦後のろう教育
1947年の児童福祉法の公布、1948年のろう学校の義務制の実施、1949年の教員免許法と身体障害者福祉法の制定、1950年に始まる教員養成課程の設置、1954年の就学奨励法の制定等の一連の法的な措置は、従来、慈善的な色彩を帯びていたろう学校の教育を国民の教育へと変化させていく。未就学だった聴覚障害児が学校に入学するようになり、学校数も増加してきた。

1953年に「教育上特別な取り扱いを要する児童生徒の判別基準」が作成されてろう学校に就学する者の聴力の程度が示されたことと、1957年と1958年に制定されたろう学校学級指導要領でろう学校の教育課程の基本が定められた。

新しい聴覚障害児教育の方法
1957年  東京教育大学付属聾学校(旧東京聾唖学校)・萩原浅五郎
    「新しいろう教育 オージオロジー」を発表
    3歳入学による早期教育と聴能訓練による新しい教育方法を提案

1961年  岡山市内・山下小学校で戦後最初の難聴学級が開設、ろうと難聴の分離が開始される。

1960年代  統合教育がピークに達し、ろう学校在籍児童・生徒数が次第に減少していく傾向を示し始めました。

1959年  宮城聾学校でろう精薄児の重複障害児童学級設置。1974年には212学級に達する。

1969年  ろう精薄児童の指導における手話の利用を研究した栃木校は同時法を発表。

最近の動向
1975年  聴覚障害児教育国際会議(東京)はわが国のろう教育の成果を対外的に示す一方、諸外国の情報が日本に導入されるようになった。

1976年  「聴覚障害者のための高等教育機関の設立を推進する会」設立
     アメリカのギャローデット大学、ナショナル聾工科大学、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校における実践の報告が大きな刺激となる。

1987年10月  筑波技術短期大学が創設される。

1976年  身体障害者雇用促進法が改正されて、聴覚障害者の大企業への就職が開かれることになる。  

スポンサードリンク