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聴覚障害者からの手紙(1種2級)

聴覚障害者からの手紙(1種2級)

迷惑をかける様に、長い間すみません。
2年前の時は挙式の出席をやつたよう、お互いに手話通訳をいろいろご苦労様でした。本当は有り難く申し上げます。
挙式の時は、写真の4枚が有ったので、無料と言われて申し上げます。
この別は、昨年11月18日の時に女児の赤ちゃんを出産したら、今ではもう少し大きく女児の赤ちゃん10ヶ月過ぎているので、よろしく申し上げます。
僕も女児の赤ちゃんの名前は〇〇ちゃんと言って、お知らせ申し上げます。
あなたは 又 会いましょうね。体は気を付けてネ。
  昭和55年10月4日記入 さようなら
                           △△△より

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関八州(かんはっしゅう)とは

関八州(かんはっしゅう)とは

野州(やしゅう)  =下野(しもつけ) 東山道  栃木県
上州(じょうしゅう)=上野(こうずけ) 東山道  群馬県
常州(じょうしゅう)=常陸(ひたち)  東海道  茨城県中部・東部
総州(そうしゅう) =下総(しもふさ) 東海道  千葉県北部・茨城県西部
総州(そうしゅう) =上総(かずさ)  東海道  千葉県中部
房州(ぼうしゅう) =安房(あわ)   東海道  千葉県南部
武州(ぶしゅう)  =武蔵(むさし)  東海道  埼玉県・東京都・神奈川県東部
相州(そうしゅう) =相模(さがみ)  東海道  神奈川県中部・西部

借別 手話通訳の草分け 貞広邦彦(さだひろくにひこ)さん

借別 手話通訳の草分け 貞広邦彦(さだひろくにひこ)さん

秋篠宮妃紀子さまの手話は、まるで茶の湯の点前を見るように優雅だが、その指南役を13年務めたのが、貞広さんだった。

通夜にみえた紀子さまは棺に向かうと手話で、
「先生のご遺志にそうよう、これからも一生懸命努力いたします。どうぞ安らかにお眠りください」
と、静かにお別れをした。

そのとき、加津子夫人や遺族には、紀子さまの背中が小さく震えているように見えた。

貞広さんは手話通訳の草分けだが、手話を知ったのは20代の後半だった。広島の中学の数学の教師をしていたころ、知人に誘われて聾学校にいったのがきっかけだった。そこで見た子供たちと先生の必死な姿に胸を打たれ、聾学校の教師に転じる。そして、手話の単語をひとつずつ覚えていった。

「僕は、子供たちに教えられ、励まされ、育ててもらったようなものです。みんな、耳が聞こえない分、心が優しいんです。」

と、いつもいっていた。

増える一方のカタカナ言葉をどう訳すか。難問を抱えて忙しい日々を過ごしながら、手話落語をし、カラオケにいけば「王将」を手話付きで歌うこともあった。仲人をした聾唖者は30組を超え、その世界では、父親のように慕われていた。

2月に病気がわかって入院すると、加津子夫人に、「やっと二人きりになれたな」といったが、病気と闘いながらも、恒例の「全国高校生の手話によるスピーチコンテスト」のことが、頭から離れないようだった。

手話の普及などを目的に、1984年に始まった催しで、第1回から審査委員長を務め、紀子さまは9回出席されている。

記念の20回目の今年は、8月30日に東京・有楽町の朝日ホールで開かれるが、息を引きとった6月2日は、そのコンテストの原稿応募の締め切りの日だった。(川村二郎)

以上は、私の手元にある2003年6月30日(月)の朝日新聞夕刊からの記事紹介です。

早口言葉

早口言葉

・なまごめ、なまむぎ、なまたまご

・となりの客は、よく柿食う客だ

・東京とっきょ、きょかきょく

・赤まきがみ、青まきがみ、黄まきがみ

・スモモも桃、モモも桃、スモモもモモも桃の内

・蛙ぴょこぴょこ、みぴょこぴょこ、あわせてぴょこぴょこ、むぴょこぴょこ

・バス、ガスばくはつ

・坊主がびょうぶに、じょうずに坊主の絵をかいた

・となりの竹やぶに、竹立てかけたの誰だ

手話で教える洋裁・先生も苦難の闘病経験者・アラシの中のオアシス神戸

手話で教える洋裁・先生も苦難の闘病経験者・アラシの中のオアシス神戸

国鉄兵庫駅から西へ、高架下はずっと倉庫になっている。その一角に、夜の十時になっても明々と電灯がついているところがある。ここは神戸ロウア・ハウス。板敷の部屋にムシロを敷き裁縫机を囲んで一心に洋裁のノートをとっている二十数人の女性は”言葉を奪われた人たち”…教える人はイブの会の米原英子さん(三七)と万代房子さん(二九)の二人。高架上を走る電車の振動音と米原さんが黒板に書くチョークの音だけが森閑としたこの部屋の空気を破っていた。

ロウア・ハウスができたのはさる昭和二十四年の七月、神戸ろうあ協会(鎌谷悼会長 会員二百名)の広畑肇前会長や理事の竹中喜美さんらがなんとかロウア者のためのクラブを持ちたいと運動し、この建物を借りた。神戸市からわずかの補助はあるが鉄道管理局から借りている家賃年三万五千円を払えば集めた会費も全部なくなってしまうという。だが、会員にとってここは唯一のサロンであり、憩いの場所となった。これらの人々は不幸な星の下に生れ社会からはもとより実家にあってもうとまれる人がほとんど。雇ってくれる人もなく、洋裁や手芸で細々と生活の糧を得ているが、もとより自己流の貧しいもの。「なんとか洋裁の理論についても勉強できないものだろうか」と思い悩んでいた竹中さんの前に現れたのが米原さんと万代さんの二人だった。この二人がロウア・ハウスに毎週水・金曜の二日午後七時から十時まで出張講義に通いはじめたのが昭和三十年の七月。すでに八カ月もの間、一日も欠席することなくつづけられている。

はじめのうちはこの二人の先生も全然話すことができず、竹中さんが通訳をしていた。いまでは二人ともすっかり手話を覚え、集った生徒たちと手で冗談さえいえるようになった。ところが、この先生二人も実は身体障害者。黒板に立つ米原さん、おかっぱ頭の万代さん、ともに元気な顔色だが、米原さんは六年、万代さんは五年もの間、有馬郡三輪町、国立療養所春霞園での闘病生活を経てきた人。米原さんは合成樹脂の玉二十九個を胸に入れる大手術をしたが失敗して一年後にはロッ骨を七本も折り、万代さんもロッ骨を三本切り取った体だった。春霞園を退院後、二人はお互いに励ましあいながら、未亡人や身体障害者など社会的に弱い女性の人生に美しい花を咲かせるひとはできないかと相談した。この企てには万代さんの知人の神戸女学院社会学科を出たばかりの東後宣子さん(二六)と山口さなえさん(二六)も賛成、この四人でさる昭和二十九年の四月に女性ばかりの”イヴの会”がつくられた。手内職の技術を持たない人には技術を教え、職のない人には仕事を提供しようという会。会長にはお百度を踏んで兵庫県連合婦人共励会の田村ふくさんを迎えた。はじめは事務所を坪田ビル二階においたが、昭和三十年四月、現在の兵庫区会下山町一、積徳会内に移り、ひきつづき洋裁、和裁、人形、編物などの内職仕事を教え、あっせんしている。

ロウア・ハウスの編物教室にはすぐ三十人の生徒が集った。無論生活困窮者からは月謝もとらない。ほとんど足代にもならぬくらいの報酬でつづけられた。言葉が通じにくい点もあって、普通人なら三カ月ですむ課程も二年間はかかるという。しかしいまではどしどし質問も出るようになり、数人の優秀なものは別あつらえの注文もとれるようになった。この女性たちは「電車のなかで手話をしていると乗客がひどく笑うのが悲しい。笑わずに友達になってほしい。アメリカ兵は決して笑わない。可哀そうだといってチウイングガムさえくれた」「オシでも心のいい人、仕事も上手な人もいる。私は一生懸命勉強して覚えるから仕事場とミシンがほしい」「最近外国映画の”混血児”というのを見たが黒ん坊の子供がみなから笑われているのを見た時自分の子供時代を思い出して泣けて仕方がなかった。その子が海岸の砂でゴシゴシと顔を洗うのを見て私は指をいやというほど耳に突っ込んだ」また最近離婚した一婦人は「子供が生れるときオシではないかが一番心配だった。そうでないと知ったときの喜び。しかし大きくなるにつれ二人の子供がオシの子だと友だちにいわれ泣いて帰ってくる。結局自分がいない方がこの子のためだ。耳の聞こえるお母さんが来るようにと思って離婚した」とそれぞれ訴えるのだ。だかせ、この人たちは万代さんが病気になったとき、みんなで十円ずつ出し合って見舞に行く人達でもある。

以上は、私の手元にある神戸新聞の昭和31年3月4日(日)の夕刊記事からの引用である。

核家族が進む中

核家族が進む中、夫婦だけとか、一人暮らしをされている方が多い。我が家も早くから、夫婦だけの生活になってしまった。子育てをしているときは、理想を追っていた。息子たちが大学へ行くときには、それぞれ県外で一人暮らしをしなければならないだろうが、卒業すれば戻って来て、地元で就職、結婚して、近くで住居を構えてもらうと。

しかし、現実はそうはいかなかった。夫婦だけの生活は、楽でいいが、寂しい。以前、知人が、「息子、娘がどちらでも遠くで就職、結婚され、早くから夫婦だけになり、寂しい毎日だ」と、会う度に愚痴のようにこぼしていた。当時、私は家族4人そろって、成長期の息子2人のために、毎日、弁当作りで忙しかった。「2人だけやったら、楽でええやん」と、何気なく言っていた。しかし、ここ数年前から、夫婦だけになってしまい、実際に自分たちが経験してみて、あの時の知人の言葉がよく分かった。思いやりのある言葉をかけてあげられなかったことを、反省している。

四年目迎える愛の手話グループ”葦の会”聴力障害者の”耳”に…演劇で手話学ぶ、結成記念の「母の日」上演へ猛訓練

葦の会四年目迎える愛の手話グループ”葦の会”聴力障害者の”耳”に…演劇で手話学ぶ、結成記念の「母の日」上演へ猛訓練

聴力障害のための手話通訳グループ「葦の会」が発足して四年になる。その結成記念の五月十二日の母の日の上演を目指して同会の手話演劇の練習が週二回夜、神戸市立身体障害者福祉会館で続けられている。

同会が発足したのは、昭和三十九年五月。同年一月から始められた神戸市聴力障害者協会の手話講習会に「めぐまれない人のために奉仕活動をしたい」と同じ志を持って集まった人たちを母胎として生まれた。手話通訳三十年というベテランの竹中喜美さん(五四)を先生に週一回勤めの終わったあと、指を使ってのアイウエオの練習からスタート。聴力障害者となんとか意志の疎通が可能になったのは半年後だった。

聴力障害者は口話筆談、手話と互いにコミュニケーションをかわすことはできるが、相手が普通人や盲人となると会話は不可能に近い。聴力障害者の雇用先で起きた雇用者、職場の同僚とのイザコザ、身の上相談、身体障害者会議での聴力障害者と視力障害者との通訳など聴力障害者にとって手話通訳者の存在は、盲人の白いツエ以上に貴重なもの。同会発足当時から会員の活動機会はほとんど無限といっていいほどころがっており、会員はひっぱりだこ。しかし発足時二十人ほどいた会員も女性が多かったため結婚してやめていくケースが多く、先細りする傾向を見せ始めた。雨、風にめげず細く長く続けていこうという趣旨で「葦の会」と名付けられた同会だが、会員が新しく手話をマスターできるようにと演劇を通じて手話の練習を始めた。普通の練習では機械的でおもしろくない、小手先の手の動きでは表現力があまり豊かでないなどの反省から練習方法に演劇を採用したわけだが、手と体全体の動作で表現する演劇特有の大きなゼスチュアによって会員の表現力が豊かになったと、顧問の竹中さんも目を細めている。

脚本は竹中勇太郎作「雪女風土記」。貧しい村人のところへある日突然雪女が絶世の美女に化けて現われ、妻としてはた織りから家事まで引き受けてかいがいしく働いていた。ところが彼女を見染めた村の殿様から側室として献上するようツルの一声がかかると変わらぬ愛を誓い合っていたにもかかわらず命ほしさに彼女を渡してしまうというストーリー。同会会長の頂ヒナ子さんは「私たちの手話は幼稚ですが、人間同士の信頼とか愛のきずなといったものがいかにもろいものか、そのきずなを守っていくためにどれだけ努力しなければならないものか、といった原作のテーマが聴力障害者の方に理解していただければ大成功だと思います」と話している。

以上は、私の手元にある昭和43年3月6日(水)の神戸新聞記事からの引用である。

聴覚障害者の教育の歴史(日本編)

聴覚障害者の教育の歴史(日本編)

聴覚障害者に対する社会の態度は、歴史的には三つの時期に区分される。

第一 古代から中世にかけて、障害者が迫害され、虐待されていた時代。
第二 キリスト教の普及期で、障害者が保護され、憐みの対象とされていた時代。
第三 ルネッサンス以降、障害者を受け入れて出来るだけ社会に統合させていこうとする時代

聴覚障害児を社会に統合させようとする教育は、ルネッサンスとそれに続く人文主義思想によってその可能性が叫ばれ、16、17世紀に、スペイン、オランダ、イギリス等の先進諸国で家庭内の教育が試みられた結果、18世紀の後半に、フランス、ドイツ、イギリス等にろう学校が設立されて本格的化し、急速に普及してきた。

日本における聴覚障害者教育の歩み

学校教育の開始
聴覚障害児の学校教育の必要性が叫ばれたのは、福沢諭吉や山尾庸三等のヨーロッパ留学の体験によるもの。つまり、欧米で聴覚障害児教育が開始されてほぼ100年の後のこと。

1878年  京都盲唖院
  古河太四郎や鳥居嘉三郎を中心に進められ、五十音の発音要領、漢字仮名の指導、筆談要領、作文指導及び算術や地理等の教科指導でした。指導方法は手話、指文字と書き言葉によるもの。

1880年  東京の楽前会訓盲院
  伊沢修二、小西信八、石川倉次等を中心に行われる。
  伊沢は欧米式の口話教育を紹介、小西は教員養成の道を拓き、石川は国語指導や発音指導に功績が大きいと言われています。

1900年前後に日本各地に篤志家(とくしか)による私立学校が20校ほど設立され大いに普及しました。

1920年以降、私立学校が府・県立に移行され、また、盲とろうが分離されて、本格的なろう学校教育へと脱皮していく。

口話教育への転回
手話法で始まった学校教育は、1920年にライシャワーによって日本語聾話学校が設立され、アメリカの口話教育が導入されて以来、次第に口話法へと転回していく。

1919年に口話研究所を開校した西川吉之助

1920年に口話法を採択した名古屋市立校の橋村徳一

1925年に口話法を採択した東京聾唖学校の樋口長市、川本宇之介
    特に、川本は日本聾口話普及会を結成し、機関誌「口話式聾教育」の発行、教員講習会の開催、教科書の編纂(へんさん)等を通じて口話教育の普及に努力した。

1930年にはほとんどの学校が口話法を採択するようになる。

しかし、大阪市立校の高橋潔、藤井東洋男、大曽根源助は、適正教育を主張し、聴力の程度や口話法に対する適正によって、口話、口話・手話・指文字、手話・指文字のグループに分けて指導した。

戦後のろう教育
1947年の児童福祉法の公布、1948年のろう学校の義務制の実施、1949年の教員免許法と身体障害者福祉法の制定、1950年に始まる教員養成課程の設置、1954年の就学奨励法の制定等の一連の法的な措置は、従来、慈善的な色彩を帯びていたろう学校の教育を国民の教育へと変化させていく。未就学だった聴覚障害児が学校に入学するようになり、学校数も増加してきた。

1953年に「教育上特別な取り扱いを要する児童生徒の判別基準」が作成されてろう学校に就学する者の聴力の程度が示されたことと、1957年と1958年に制定されたろう学校学級指導要領でろう学校の教育課程の基本が定められた。

新しい聴覚障害児教育の方法
1957年  東京教育大学付属聾学校(旧東京聾唖学校)・萩原浅五郎
    「新しいろう教育 オージオロジー」を発表
    3歳入学による早期教育と聴能訓練による新しい教育方法を提案

1961年  岡山市内・山下小学校で戦後最初の難聴学級が開設、ろうと難聴の分離が開始される。

1960年代  統合教育がピークに達し、ろう学校在籍児童・生徒数が次第に減少していく傾向を示し始めました。

1959年  宮城聾学校でろう精薄児の重複障害児童学級設置。1974年には212学級に達する。

1969年  ろう精薄児童の指導における手話の利用を研究した栃木校は同時法を発表。

最近の動向
1975年  聴覚障害児教育国際会議(東京)はわが国のろう教育の成果を対外的に示す一方、諸外国の情報が日本に導入されるようになった。

1976年  「聴覚障害者のための高等教育機関の設立を推進する会」設立
     アメリカのギャローデット大学、ナショナル聾工科大学、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校における実践の報告が大きな刺激となる。

1987年10月  筑波技術短期大学が創設される。

1976年  身体障害者雇用促進法が改正されて、聴覚障害者の大企業への就職が開かれることになる。  

聴覚障害者の教育の歴史(世界編)

聴覚障害者の教育の歴史(世界編)

聴覚障害者に対する社会の態度は、歴史的には三つの時期に区分される。

第一 古代から中世にかけて、障害者が迫害され、虐待されていた時代。
第二 キリスト教の普及期で、障害者が保護され、憐みの対象とされていた時代。
第三 ルネッサンス以降、障害者を受け入れて出来るだけ社会に統合させていこうとする時代

聴覚障害児を社会に統合させようとする教育は、ルネッサンスとそれに続く人文主義思想によってその可能性が叫ばれ、16、17世紀に、スペイン、オランダ、イギリス等の先進諸国で家庭内の教育が試みられた結果、18世紀の後半に、フランス、ドイツ、イギリス等にろう学校が設立されて本格的化し、急速に普及してきた。

欧米における聴覚障害児教育の歩み

学校教育の開始

1760年 フランス ド・レペ パリろう学校
     宗教的使命観に基づく貧困ろうあ児の教育と保護を目的とした学校
      手話法で書き言葉と意味を指導

1778年 ドイツ ハイニッケ  ライプチッヒ聾学校
     聴児の教育経験を生かして聴覚障害児に聴児のように普通の言葉で話す
口語法

1783年 イギリス ブレードウッド ハックニー聾学校
     富裕な家庭の聴覚障害児の学校
      口語法

その後、次のように欧米諸国に普及していく。

1779年 オーストリア ウィーン校
1784年 イタリア   ローマ校
1790年 オランダ   グレーニンゲン校
1795年 スペイン   マドリッド校
1802年 ハンガリー  ワルツェン校
1806年 ソ連     ペテルブルク校
1807年 デンマーク  コペンハーゲン校
1808年 スウェーデン ストックホルム校
1817年 アメリカ   ハートフォード校
1823年 ポルトガル  リスボン校
1824年 ノルウェー  トロント校

義務制の実施
1805年 ドイツ  ハイニッケの主張によりシュレスウイッヒ・ホルシュタイン国で、教育可能なろうあ児の就学義務制が世界で最も早く実施される

1870年代 ハンブルクその他で義務制が制定されたものの、全国が統一されたのは1938年です。

イギリスでは、聴児の就学義務制が制定された1876年、1880年に10年余遅れて、1893年に盲・聾初等教育法により決定される。

フランスで、聴児の就学義務制が1880年に施行されたにもかかわらず、聴覚障害児については、公的な扶助は充実されたものの、全国的に義務制を規定されるに至らなかった。

ノルウェーは、1881年、スウェーデンは1897年に、アメリカではマサチュウセッツ州が1905年に、ソ連は1931年に義務化を施行した。

教育方法
1880年にミラノで開催された国際会議で口話法を全国的に指示する決議がなされ、以来、口話法による教育が主流となっていったこと。

1900年前後からアメリカのろう学校で3~4歳の就学が開始されたこと。

1920年にアメリカのベル研究所で純音聴力測定器が開発され、1930年代に集団補聴器がアメリカで開発されたことによって聴覚活用の教育が推進されたこと。

1950年以後の動向としては、アメリカでは指導方法を口話法に限定しないトウータル・コミュニケーション法が優位になったこと。

コンピュウタ技術の応用が進んで文字放送や字幕入りビデオ製作が開始されたこと等が注目に値する。

そうせい・早世・早生・早成・走性・奏請・創世・創成・創製・蒼生・叢生・創生・葬制・双生・早逝・草勢・装製・相制

そうせい・早世・早生・早成・走性・奏請・創世・創成・創製・蒼生・叢生・創生・葬制・双生・早逝・草勢・装製・相制

1. 早世: 比較的早く死んでしまうこと
2. 早生: 1 植物の実などが普通より早くできること。わせ。「―の品種」⇔晩生。
2 普通より早く生まれること。早産。
3. 早成: 1 早く成し遂げること。2 心身が普通より早く発達すること。早熟
4. 走性: 自由に動くことのできる生物が外界からの刺激に対して行う方向性のある運動。運動が刺激源に向かう場合を正,逆の方向へ向かう場合を負とする。刺激の種類から走光性・走化性・走流性・走触性などに分ける。また,重力・電気・熱などに対する反応もみられる。
5. 奏請: 天子に奏上して裁可を求めること。そうしょう
6. 創世: 世界を初めてつくること。また、世界のはじめ
7. 創成: 初めてつくり上げること。また、初めてでき上がること
8. 創製: 商品などを初めてつくり出すこと。「江戸中期に―された菓子」
9. 蒼生: 多くの人々。人民。あおひとぐさ
10. 叢生: ①草木などが群がり生えること。ぞくせい。 「森の奥には雑草や灌木が-して/戸隠山紀行 美妙」 ②茎や花茎などが,根ぎわから束(たば)のように集まって生ずること。束生(そくせい)。
11. 創生: 初めて生み出すこと。初めて作ること
12. 葬制: 葬送に関する制度・習慣。風葬・水葬・土葬・火葬など、民族の生活様式や慣習または信仰形態に対応して、種々の様相を呈する
13. 双生: 同時に二人の子を産むこと。また、生まれること
14. 早逝: 若くして死去すること
15. 草勢: 作物が元気に生育していること
16. 装製: ケースに詰め合わせる作業
17. 相制: 哲学で、精神と身体との間に因果的相互作用を認める説。交互作用説